精神分析的な「治療」は、個人がそこに豊かでその人の人生にとって「本人の望む生産的な」(側から見てお金を生み出すとかの意味ではない「生産性」)心のありようを持てるようにする手伝いみたいなものだと私は考えています。
多分、この私の理解は、一般的に私の周りにいる同業者よりも余計に社会への関心の色合いが濃いですが、もちろんそれは私が誘導することではないので、患者さんの向かいたい方向についていっているだけなんですけどね。
治療者(転移的には両親)への怒りは、その人にとっては個としてのその人の自己主張の産声ですから、自信を持って目一杯治療者をボコボコにできた人は、その延長で社会の中で権利を主張して、当然の怒りを発露出来る人になっていくのだと私は思っています。
日本人は基本、親子が密着していて、あなたと私が違うことへの恐怖が強いので、それが難しい。それは権威や権力との一体化や馴れ合いや忖度などの今の社会の弊害の元になっている気がしています。
あなたと私は違うし、仲良しでもない。
でも、大丈夫。
それでも世界は壊れない。
…と言うような感覚が大事な気がします。